【コラム】サイエンスはゲームである

うちのボスがたまに使うキーワードが「game」である。
例えば、自分たちはこっちにフォーカスしているから、あっちのgameには参加しないなんて使い方をします。

最初はこれって、分野やジャンルという意味で使っていると思っていたんですが、どうもそうじゃなくて、本当にgameに近い意味で使っているんだということに最近気付きました。

例えば、実験設備なんかを何十億と寄付してくれている人にラボを案内するとき、「toy」という言葉を使って説明しているわけです。
日本だとちょっと考えられないですよね。実際の現場では確かにtoyなんです。好きでやっていてわけですから。でも、お金を出してくれた人にうちらのおもちゃを紹介しますなんて言い方はしないでしょう。

で、実際のゲームと比較すると何が違うのかというと、売っているゲームは一応ゴールが設定されていることが多いですし、プログラミングされた以上のことはできません。しかし、サイエンスのゲームは複雑で本当にゴールがあるのかどうかさえわからない。言わば最も複雑で難解なゲームとも言えます。
サイエンスのゲームを神が造ったものの仕組みを明らかにしていくと仮定すると、例えば、遺伝子の数に限界があるようにプログラミング量にも限界があるように感じますが、より細かいもの、より大きなものを見る技術が発展するたびに同じものでも見方が全く変わってきたりするからある意味無限に拡がる世界とも言えます。
今正解と思っていた考え方が、全く間違っていたということも十分あり得るし、実際、そういうブレークスルーはたくさんありました。

要するに、常に技術の限界があり、それが真の解答であるかどうかは分からないということです。

ほとんどの日本人研究者と欧米で成功している研究者の決定的な違いの元となる認識の違いがここにあります。

そして、サイエンスはゲームであると認識したときとしないときではそのやり方に全く異なるアプローチが取られるのです。
(つづく)