【コラム】愛とは何か?

自分の子供は何故愛おしいのかといった根源的な話ではなく、他人に対する愛について考えてみます。

今月初め、嫁さんとちーやんが帰国しました。この4年半、家族3人で慣れない土地で頑張ってきたわけです。特に最初の2年はちーやんの病気で本当に苦しみました。そんなこともあって、保安検査場を通る前にハグして、食事のことや子育てのことの感謝の言葉を言うつもりでした。
この約8年間ずっと2人で仕事してきたわけです。特に直前の1ヶ月は彼女の仕事を仕上げるために結構きつい仕事もあったのですが、2人で協力してやっていました。そんな二人三脚が初めて解消されるわけです。
保安検査場に入る直前、ハグするつもりが、まず2人の頭がコツンと当たって、彼女が「頑張ってね」と一言言った瞬間、涙がこみ上げてきて何も言えないわけです。彼女も目に涙を浮かべて、それでいてそれを少し隠そうとしてこちらを見ません。結局、泣くのを堪えるのが精一杯でそれ以上の言葉を交わせずにお互い手を振って見送りました。
こんなことになるとは、全く予想していなかったのです。


で、その後、ふと思いついたのが、このネタ。


結婚式の時、教会で以下のようなやり取りがあります。
事前に神父さんが、神様についてあれこれ説明してくれることもあります。


コピペ--------------
司祭: ○○○○○さん、あなたは●●●●●さんを妻とすることを望みますか。
新郎:はい、望みます。
司祭:順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、夫として生涯、愛と忠実を尽くすことを誓いますか。
新郎:はい、誓います。

司祭: ●●●●●さん、あなたは○○○○○さんを夫とすることを望みますか。
新婦:はい、望みます。
司祭:順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、妻として生涯、愛と忠実を尽くすことを誓いますか。
新婦:はい、誓います。

司祭:わたしは、お二人の結婚が成立したことを宣言いたします。
お二人が今わたしたち一同の前でかわされた誓約を神が固めてくださり、祝福で満たしてくださいますように。
(神が結ばれたものを人が分けることはできません)
コピペ--------------

私は特に信仰はありませんから、形だけのものと思っていたわけですが、そうではないんですね。

このやり取りは神に対する誓いのように見えます。しかし、考えて下さい。
キリスト教と仏教とイスラム教は異なる神を崇めています。そして、信者は自分たちの神こそ本当の神として疑いません。どれが本当の神様なのでしょうか?

答えは三つ。
1) 実は全く同じ神様を別の名前で呼んでいるだけ
2) そもそも神様は存在しない
3) 個人において神的な存在を仮定しているだけで、実在はしない。しかし、その個人においてそれは真実たり得る

1) はそれぞれの宗教が否定しています。2)ももちろん、否定しています。結論としては3)になるわけです。これなら矛盾はしません。


さて、再度、教会の誓いの言葉を見てみましょう。ここに3)を踏まえた上で、一言加えてみます。

コピペ--------------
司祭: ○○○○○さん、あなたは●●●●●さんを妻とすることを望みますか。
新郎:はい、望みます。
司祭:順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、夫として生涯、愛と忠実を尽くすことを自分に対して誓いますか。
新郎:はい、自分に対して誓います。

司祭: ●●●●●さん、あなたは○○○○○さんを夫とすることを望みますか。
新婦:はい、望みます。
司祭:順境にあっても逆境にあっても、病気のときも健康のときも、妻として生涯、愛と忠実を尽くすことを自分に対して誓いますか。
新婦:はい、自分に対して誓います。

司祭:わたしは、お二人の結婚が成立したことを宣言いたします。
お二人が今わたしたち一同の前でかわされた誓約を神が固めてくださり、祝福で満たしてくださいますように。
(神が結ばれたものを人が分けることはできません)
コピペ--------------

こうすると、教会での誓いの言葉はぐっと自分自身のこととして考えられるようになるでしょう。

他人に対する愛とは自分自身に対する誓いなのです。

例え、2人を死が分かたなくても、離婚したとしても、相方が不倫で駆け落ちしたとしても、それでも愛し続けますかという誓いなのです。

愛は自然に湧いてきません。誓いを守るという行動を伴ってこそ、愛は育まれます。2人の行動がその愛をより一層深いものにしてくれますが、莫大なエネルギーを費やせば、実は1人で守り続けることも出来ます。

何故なら、それが自分に対する誓いに過ぎないからです。