【コラム】日本の科学者がもの作り中毒になってしまう理由

“すなわち、最も楽な方法で、つまり、自分が一番苦労しない方法で、かつキャリアのトータルプランを考慮しつつ、アメリカ人の2,3倍仕事をする。これが日本のサイエンスがトップレベルに上がるために必要なことなのです。”

と書きましたが、実は私自身はそうすべきであるとは考えていません。分野によって若干事情が違うのでメジャーな分子生物学を念頭に置いて書いてみます。

分子生物学って、マテリアルが揃わないと事が進みません。しかも、このマテリアル作りが一番時間と手間がかかるのです。人はやっている時間が長くなると、それが仕事のような錯覚に陥りやすいため、一度マテリアル作りに手を染めてしまうとそもそも何のためにマテリアルを作っているのか、本当にそれが必要なのかといったことに頭が回りにくくなります。その上、やはり日本人なんですね。もの作りは楽しいんですよ。そして、ものを作っている手が意識をもの作りに引っ張ってしまうのです。恐らく欧米人は楽しいなんて感じていませんw


では、もの作りをしていない教授なら一番苦労しない方法を指導出来るんじゃないかと思いきや、手を動かしていないとそのマテリアルを使った新しいアイデアも浮かんでこないのです。教授に出来るのはその仮説に対する方法論の是非の判断だけです。あとはレガシー技術の組み合わせでより簡単に実験出来ることを指摘出来る程度です。

じゃあ、欧米人はどうしているのかというと、仮説を立てるための実験は相当します。恐らく日本人よりもアクティブに手を付けます。但し、闇雲に何にでも手を出すのではなくて論文や未発表データ、学会のデータ、仲間のデータ、ギルド経由で手に入った情報を元にあと一つで仮説が証明出来るという決定的な証拠を集めにかかります。

一度その証拠を突き止めたら、それを証明するために一番苦労しない方法。つまり、他人からできるだけマテリアルを集めてとっとを証明し尽くそうとします。

日本人もそうすべきなのはわかっているんですよ。わかってはいるんですが、まず情報が少ない、そのため2手手前くらいからしか攻められない。それだけで当たりの確率がかなり減ります。さらに方法論の制約があります。自前主義と蛸壺化で一つのラボでできることには限界があります。そのため、本来ならこうすべき実験を自分のところにある技術でアプローチせざるを得なくなるという罠が待っています。それだけでさらに二つか三つ手前まで後退です。

例えば、何とか病の原因を突き止めて治療法を見つけ出すんだというテーマがあったとします。
それには、その病気のモデルといわれているこの薬の振りかけ実験をして、マイクロアレイで原因遺伝子を見つけるんだ。みたいなね。ある程度経験を積んだらテーマを聞いた瞬間に「終わってる」とわかるのですが、実験をしたことのない1年生にはそのリスキーさがそこまで実感出来ないんですよ。

さらにマテリアルが集まりません。国外はもちろん、国内であっても蛸壺化の影響でそう簡単には虎の子のマテリアルをくれることはないわけです。

そこで、取り組むのがマテリアル作りですよ。ものにも寄りますが、1年、2年、3年コースです。

一方、こちらの学生はまずマテリアルを渡されます。決定的なデータが取れるマテリアルを渡されて、そこからデータを取って証明していきなさいとなるわけです。日本は2年か3年経ってからさぁ始めなさいです。そして、先日挙げた例のように自分で作ったマテリアルはやっぱり可愛いんですよ。例え、それよりも良い系があったとしても、自分で作った系の利点を少しでも見いだして、見いだそうとして拘ります。マテリアルは人から貰うものという価値観があればそんなことにはならないのに。

それと日本人がマテリアル作りに拘るもう一つの理由。
マテリアルはやっぱり誰かが作らないといけないんです。例えば、ノックアウトマウス分子生物学に必須ですが、こちらだとほぼ外注。ところが日本はお金がないから自前で作ります。また、例えそれが損なくじを引くことであったとしても、誰かが作らないといけない。誰かが犠牲にならないといけない。科学が好きだからこそ、そんなカミカゼの精神が自爆だとわかっていつつも微笑みながら特攻させるという面もあります。

とはいえ、希望も必要です。この特攻が戦局を一変させるかもしれない。そんな一縷の希望がないと頑張ることも出来ません。それがノックアウトマウス作りです。
すでに4手も5手も手前にいる状態を一発逆転させるかもしれないのが、ノックアウトマウス作りです。場合によっては、何が出るかわからないけどとにかく作るという場合も結構あります。こっちだと、作ったものを解析するところから始まるのに、日本だと作るところから始まります。

じゃあ、マテリアルを最初に渡せばよいのかとなると、今度はその決定的なマテリアルが手に入らないという事態が待っています。結果、銅鉄実験のような実験を任されるという夢も希望もない状態になってしまいます。
(銅鉄実験とは、「銅でやってみてこうだったから次は鉄でやってみました」的な研究のことです。)
結果、それならマテリアル作りで一発逆転を狙うという話になってしまうのです。


ところが、海外のラボの斬新な発表はマテリアルの新規性よりも、マテリアルをどう使うかの新規性の発表が多いんです。一方、日本からのインパクトのある発表はどちらかというと、凄いマテリアルを作った、もの凄くたくさんマテリアルを作って解析したといった話が多いような気がします。そういったことや精神性から来る違いが、もの作りに対する評価になって現れます。もの作りばかりしているからついついもの作りを評価してしまう日本。ものはどう使うか、何のために使うかが大事なのであって、もの作りそのものは全く評価しない欧米。ゴールに向かって、まっすぐ向いている欧米に比べて、真横を向いているのが日本とも言えます。

じゃあ、どうすればよいのかが本題だったのですが、長くなったので次回。