【コラム】日本のリーダーが駄目な理由

管総理や東電社長が批判されています。
歴代の総理も一部を除いて、高く評価されている人はほとんどいません。
企業の社長も顔が見えるといえる人は数えるほどしかいません。



成功して、尊敬されるリーダー、成功しているが尊敬されないリーダー、尊敬されているがそんなに成功していないリーダーともっと多様なリーダーの在り方があっても良いのですが、事なかれ主義の顔の見えない、とりあえずポジションに就いただけの人が多いから動くものも動かないのが今の日本。これは昔からずっと続いてきた日本人の特徴ですから、高度経済成長もそれだけの生産性が上がる手を打ったわけではなくて、その本質は単に世界情勢や生産人口の増加といった他の理由から起こったものなのでしょう。



そういう受動的な成長ではなくて、能動的な成長が求められていますが、そのためのリーダーが全く出てこないのには二つ理由があります。



一つは突出した人を排除しようとする社会性
「出る杭は打たれる」のは大抵の場合、上司がその部下に上司たる所以の部分で抜かれそうになっているというケースが多いのではないでしょうか。
失敗をせずに、何もしなくて、もしくはまぐれ当たりで昇進しただけの上司にとって自分の力でバリバリと成果を出してきた部下の昇進は嫌なものです。
逆にバリバリ活躍して昇進した上司にとっても、一度でも方針の違いがあると、目障りなだけです。



もう一つはそもそもリーダーになるための訓練を受けていないというのがあります。


ビジネスの社会とアカデミアを比較したりしてきたわけですが、末端の仕事の延長線上に管理職の仕事があるわけではありません。



もちろん、そのために課長、部長と徐々に部下の数を増やして訓練していくわけですが、そうすると、今度は失敗したことがない人がどんどん上に上がっていってしまい、リーダーとしての成長幅が少ないままトップになってしまうわけです。今回のような緊急時に大胆なリーダーシップを全く発揮出来なくなります。どれくらいやるとどれくらい失敗する可能性があるのか。その失敗をリカバリーするにはどれくらいの労力が必要で、それを避けるためにはどうしたらよいのかといった事に対する距離感が養われていないから及び腰になって打つ手を打てないリーダーが出来上がるわけです。


その意味で、原発で事故があったから、原発担当者を処罰するということを繰り返してきた電気会社は最も大事な財産を自ら放棄していたのと同じであり、結果的に痛い目に遭いました。



よく「責任を取る」という言葉が出ます。失敗したら、自分が役職を降りる、会社を辞める、給与をカットする、自腹で賠償金を払うなど色々ありますが、その本質的な意味は、どの程度失敗する可能性があるか見切っているという意味です。ということは、失敗の経験がないとそれを見切ることは不可能とも言えます。


より大きな失敗をした人間こそリーダーとしての可能性がある。



よって、本来なら、失敗しない、業績を出す以外に、失敗したことも評価する仕組みをはめこむか、大きな失敗した人も起用してみるというランダム性も取り入れる仕組みが必要なのかもしれませんが、そういう予測不可能性を日本人は嫌うんですよね。


金儲けによる成功を「金儲けか…」と蔑もうとするのも同じ事です。一歩踏み出す勇気がないから、自分の社会的地位こそ価値があると思い込みたいわけです。でも、本当に金儲けをバカにしたいなら、副業でびっくりくらい稼いで、儲けを全部寄付するくらいのことをして初めてバカに出来ていると言えます。



ということで、前なんとかさんは脇が甘いと言われますが、そういう意味での可能性はあるということでしょうか。